皆さま
こんにちは。
むかわけい公式HPをご覧くださり有難う御座います。
今後は定期的に当ブログにて活動報告をさせていただきます。
先ずは初投稿ということで、
1.政治活動について
2.政治家を目指す理由
3.政治に対する認識
とお堅い投稿内容になることお許しください(笑)
次回以降は地元活動や日々思うこと、政策に関する事、時局に関する事など投稿していく予定です。
それでは宜しくお願い致します。
【政治活動について】
トップページで申し上げました通り、今私は地元相模原市で政治家(市議会議員)を志しています。
そのため、日々”政治活動”に勤しんでいます。
”政治活動”とは、いわゆる「辻立ち」であったり、地域の集会にご挨拶に顔を出したりなどして、
私なりの地元政治に対する思いを何度も繰り返しお伝えすることです。
そうやって私を知って貰い、少しずつ良い信頼関係を築いていく活動です。
なかなか心身に応えるものです。
けれども有難いことに、私に理解を示して下さる人は着実に増えている実感があり、自信にもなっています。
まだまだ政治活動の真似事のような具合で、未熟者でありますが、これからも政治活動を通じて人間性を涵養していきます。
今後とも温かく応援、ご指導を宜しくお願い致します。
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【政治家を目指す理由】
当たり前なのですが、多くの方に
「なんで政治家を目指すの」
と聞かれます。
至極自然な問いなのですが、これに応えることは実は非常に難しいです。
長々と説明しようとすれば自分の言葉が空疎に上滑りして、相手の表情が「そんなものか」と曇っていってしまいます。
端的に説明しようとすれば皆さん「なんだかよくわからない」といった表情になります。
そんな場面に何度も出くわしました。
繰り返しになってしまいますが、言葉で動機やら目的を伝えることは、
実はかなり骨の折れるわざなのではないかと思います。
言葉のプロフェッショナルといえば文芸批評家、
その巨匠、小林秀雄が説くには
「現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、人間の言葉といふ様なものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富且つ微妙なものだ。」(昭和14年「疑惑Ⅰ」)
「仮に私の評論がむつかしいとするならばそれは二つの理由によるので、それ以外の理由はない。第一に、わたしの表現技巧が拙劣である事、第二には、単純な事実を語る事は、複雑な理論を語る事よりも、遥かに困難なわざであるが為だ」(昭和5年「アシルと亀の子Ⅳ」)
ということらしい。
私の場合、表現技巧が拙劣なことが大半なはずですが(笑)、そもそも言葉と現実との間に大きな隔たりがあると思うと、今私が障壁と感じていることも納得できます。
とはいえ政治を志す以上、苦心し続けても仕方がないので、なんとか短めに表現すれば
「生まれ育った故郷が好きだ。故郷の皆さんの生活を豊かにしていく形で恩返しがしたい。そのためには政治家になることが最適な道であると思っている。」
此れに尽きます。
至極当たり前の動機です。
それ以上の説明は要らないのではないか、政治家を志すものなら誰もが同じだろう、そんな風に思います。
【政治に対する認識】
動機を下手に伝えようと試みるよりも、
政治に対する認識を研ぎ澄ませていくことが大切だと思う。
けれども私は人生経験が浅く、言葉使いも拙劣である。
而して、私個人が浅薄な考え方で、正しい認識に至る事はできない。
認識を研ぎ澄ませていくには、先ずは過去の偉人が残した言葉を引いていくのがよい。
ここでは、また小林秀雄の言葉を引きたい。
小林秀雄はマキャベリの「ローマ史論」に関する批評において、
「彼は人間生活の様々な姿にいちいち照し合はさなければ、 決して政治といふものを口にしてゐない。人間理解が、政治を理論化し空想化させぬ錘りの様な役をしてゐる。人間の様々な生態に準じて政治の様々な方法を説くのを読んでゐると、政治とは彼にとつて、殆ど生理学的なものだといふ風に見える。政治はイデオロギイではない。或る理論による 設計でも組織でも ない。臨機応変の判断であり、空想を交へぬ職人の自在な確実な智慧である。彼は多くの事を漠然と望まぬ。少しの事を確実に望む。若干の平和と若干の自由 とを望めば足りる。若干の平和と若干の自由とを、毎日新たに救ひ出すより外に、平和も自由も空想の裡にしかないだらう。かういふ流儀が、シニスムに落ち込まない事は稀れだ。かういふ流儀を過ちなく行ふ人は、余程強い理想に支へられてゐなければならないから。恐らくマキアヴェリは、さういふ稀れな人であつた。彼は若干の平和と若干の自由とを 望めば足りたのだが、若干の愛国心と若干の無私とを抱いてゐたわけではなかつた。かういふ人間の心に燃えてゐた理想ほど人の眼に附き難いものはない。(昭和14年「 マキアヴェリ について」)
と仰っています。
今、政治活動に取組んでいる身として、これ以上に薫陶を受ける言葉はありません。
何度も、何度も、人と地元の景色に触れ続けて、人間理解と日常生活のための臨機応変さを涵養していく。
同時に高い理想も持ち続け、日常に埋没することもない。
途方もないことじゃないかと、萎縮してしまいます。
けれど、これくらいの人物がこれから沢山、私たちの国や地域に登場してほしいと願っています。
私もそうなれるように頑張ります。
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